未読のあいだ
昼休みのチャイムが鳴ってから十分くらい経っても、ナツの弁当は、ほとんど減っていなかった。
教室の空気はいつも通りうるさい。
隣の席の男子がくだらない動画を見て笑ってる声とか、後ろの女子グループがテストの愚痴を言い合ってる声とか、いろんな音が混ざって、ひとつのざわめきみたいになっている。
その真ん中で、ナツはひとり、机の端に置いたスマホの角を、指先でそっとなぞっていた。
画面はうつ伏せで、通知が来ているかどうかも見えない。
見えていないのに、意識だけはそこに貼りついたままだ。
(……見たところで、変わってないのは知ってるけど)
さっき、廊下に出るふりをして確認したとき。
チャットアプリのトーク画面の一番下には、昨夜、自分が送ったままのメッセージがぽつんと残っていた。
『今日はゆっくり休んでね』
その下に、小さく「未読」とだけ表示されている。
ただそれだけ。
ただ、それだけのことなのに。
心臓は、見慣れないテンポで動いていた。
「ナツ、箸止まってるけど。ダイエット?」
向かいの席から友達が覗き込んでくる。
ナツは「いや」と短く返して、無理やり一口かきこむ。
白いご飯の味が、妙に薄く感じた。
「昨日もさ、放課後ぼーっとしてたよな。寝てない?」
「ちょっと、夜ふかししただけ」
「ゲーム?」
「……まあ、そんな感じ」
まさか「通話してました」とは言えない。
言ったところで、どう説明したらいいのかもわからない。
(“ネットの友達と電話してた”って言ったら、絶対なんか質問攻めにされるし……)
想像するだけで面倒くさくて、ナツはそれ以上詳しく話すのをやめた。
友達は「あー、ほどほどにな」と笑って、別の話題に移っていく。
その声を、上の空で聞きながら、ナツはこっそり机の下でスマホを裏返した。
スリープ画面がふわっと光る。
通知は、来ていない。
ロックを解除して、指先が自然と同じアイコンを押す。
大量のトークの中で、ひとつだけ、色が違って見える名前がある。
トーク画面を開くと、昨夜のログがそのまま残っていた。
――『じゃあ、そろそろ寝よっか』
――『うん』
――『今日はありがと。なんか、よく眠れそう』
『よく眠れそう』
その一文を読み返した瞬間、胸の奥がほんのりあたたかくなる。
通話の最後、眠そうな声で凛がそう言った。
そのときも、妙に嬉しかったけれど、文字として残っていると、また違った重みがあった。
自分は、その下に一行だけ付け足した。
――『今日はゆっくり休んでね』
送ったのは、通話が切れてから数分後。
まだ画面に「通話を終了しました」と表示されているタイミングだった。
それが今も、未読のまま。
(寝落ちして、そのまま……だよな、たぶん)
昨夜、彼女の声は本当に眠そうだった。
通話の途中から、返事の間が少しずつ長くなって、最後はほとんどささやきみたいな声になっていた。
自分だって、布団に潜ったらすぐ寝てしまった。
スマホを握りしめたまま、画面の明かりが勝手に消えるまでのことは覚えている。
だから、未読だからといって、「無視された」なんて思っているわけじゃない。
頭では、そう理解してる。
むしろ、その可能性の方が高いってわかってる。
それでも。
(……見られてない、ってことが、こんなに引っかかるのか)
数字としての時間より、気持ちの方が先に疲れていくのを感じる。
まだ、出会ってからそんなに日は経っていない。
たまたま夜更かししていたタイミングで、ふとしたきっかけで話し始めただけ。
最初は「最近ハマってるゲームの話し相手」みたいな感覚だったのに。
気づけば、彼女の名前の通知だけ、他の誰よりも早く見に行ってしまうようになっていた。
(おかしいよな)
自分でも、少し笑えてくる。
たった数日、たった数回の通話。
それだけでここまで心が動くなんて、思ってもみなかった。
「はー……」
小さく息を吐いて、スマホをまたうつ伏せに戻す。
テーブルの木目が、妙に鮮明に見えた。
窓の外では、薄く雲のかかった空の下、校庭をサッカー部が走り回っているのが見える。
自分の世界とは別の場所で、ちゃんとそれぞれの日常が回っている。
凛にも、凛の生活がある。
朝起きて、通学して、授業を受けて、友達と話して。
そのどこかの隙間で、ふとスマホを開いてくれるかもしれない。
それはわかっているのに、今の自分は、その“隙間”のことばかり考えてしまう。
未読のあいだに浮かべてしまう想像が、じわじわと胸の内側をこそいでいく。
「……だめだ、集中しよ」
そう口に出してみても、すぐに意識がスマホに引き戻されることは、ナツ自身が一番よくわかっていた。
箸をようやく動かし始めたそのとき。
机の上で、スマホが小さく震えた。
心臓が、変なタイミングで跳ねる。
手に持っていた箸が、カチンと弁当箱の縁に当たった。
「どした? 地震?」
「いや、なんでもない」
友達の冗談を適当に流して、ナツはスマホをそっと裏返す。
ロック画面に、メッセージの通知が一行だけ浮かんだ。
――凛:ごめん、今見た。
文字を見た瞬間、体の力がすとんと抜ける。
安堵の方が先で、そのあと、じわっと嬉しさが追いかけてきた。
(……よかった)
声にならない息が漏れる。
さっきまで冷えていた指先に、じんわり熱が戻ってくる。
周りのざわめきが、少し遠く感じた。
ロックを解除して、トーク画面を開く。
未読だった吹き出しの下に、「今見た」の一文が増えている。
――『今日はゆっくり休んでね』
――『ごめん、今見た』
そこだけ切り取るとすごく味気ないやりとりなのに、ナツにとっては、教室の空気が変わるくらいの出来事だった。
返事を打とうとして、親指が宙で止まる。
(どう返せばいいんだ、こういう時)
“全然大丈夫だよ”
“気にしてないよ”
“今見てくれただけで嬉しい”
頭の中にはいくつも言葉が浮かぶのに、どれも少しずつ照れくさくて、そのまま打つ勇気が出ない。
ナツは一度目を閉じて、呼吸を整えてから、ゆっくり文字を打ち始めた。
『大丈夫だよ。寝てた?』
打って、一度消す。
「寝てた?」と決めつけるのは、なんか違う気がした。
『大丈夫だよ。忙しかったでしょ?』
もう一度打ち直す。
さっきよりは、少しだけましな気がする。
文の最後に絵文字をつけようとして、やめた。
変に軽く見えたら嫌だという気持ちと、逆に重くならないようにしたい気持ちが、ごちゃ混ぜになっている。
(……深読みされたくないし、したくもないし)
まだ、“そういう関係”じゃない。
たぶん、今はまだ“友達”と呼ぶのが一番近い。
でも、ただの友達に向けるテンションとも少し違う。
その微妙な温度差をどう扱えばいいのかわからなくて、結局、文章はそのままにして送信ボタンを押した。
送った瞬間、画面の左下に自分の吹き出しが滑り出て、その上に小さく「送信しました」と表示される。
それを見るだけで、胸の奥がふわっと軽くなった。
未読のあいだにあったざわざわが、すっかり消えたわけじゃない。
でも、その半分以上は、たった一言で溶けていく。
(なんだよ、それ)
自分にツッコミを入れつつ、ナツはようやく弁当に箸を伸ばした。
さっきまで味がしなかった卵焼きが、少しだけ甘く感じる。
窓から差し込む光が、気のせいか少しだけ明るくなったような気がした。
午前中の授業が全部終わって、教室のざわめきが一度静かになってから、ようやく昼休みの時間が動き出した。
凛は机に突っ伏したい衝動を抑えて、椅子に浅く腰掛ける。
カバンの中で小さく震えたスマホを取り出すと、画面の上の方に、見慣れた名前が表示されていた。
――ナツ:今日はゆっくり休んでね
その一文の横に、小さく「7時間前」と表示されている。
「……あ」
思わず、ちいさな声が漏れた。
未読マークがついている。
つまり、彼がそれを送ってから今この瞬間まで、凛は一度もそのメッセージを開いていなかったということだ。
(やってしまった……)
じわっと、耳のあたりが熱くなる。
昨夜のことを思い出す。
通話が終わる直前、ナツの声が少しだけ柔らかくなって、「そろそろ寝よっか」と言ってくれた。
自分は「うん」と答えたあと、まともに言葉を選ぶ余裕がないくらいには眠くて。
でも、「楽しかった」とか「ありがとう」とか、何かしら言葉を残したくて、手元のスタンプを適当にポンと送ったところまでは覚えている。
そのあと、布団を肩まで引き上げた記憶もある。
おやすみ、と言いかけて、言葉になる前に意識が途切れた。
だから、この「今日はゆっくり休んでね」は、きっとその少しあとに届いていたのだろう。
(見てなかったんだ、ずっと……)
凛は、急に胸のあたりがぎゅっとなって、慌ててメッセージを開いた。
画面をスクロールすると、昨夜の通話の記録の下に、その一行がぽつりと佇んでいる。
『今日はゆっくり休んでね』
それだけなのに、画面越しに、彼の声色まで蘇ってくる気がした。
通話中は、知らないことだらけだった。
どんな部屋にいるのかも、どんな表情で話しているのかも、想像するしかなかった。
でも、不思議と怖くはなかった。
むしろ、その“想像する余地”のおかげで、相手のことを少しずつ自分の中に受け入れていけたような気がする。
その彼が、自分が眠っているあいだに送ってくれた一行。
(なんか……すごく、もったいないことした気がする)
“リアルタイム”で読めていたら、昨日の夜の安心は、もっとあたたかくなっていたかもしれない。
それなのに、自分はそれを七時間も放置していた。
ナツが、どういう気持ちでこのメッセージを送ったのか。
想像すればするほど、申し訳なさが顔を出す。
(絶対、待たせたよね……)
自分が彼の立場だったら。
送ったメッセージが、未読のまま数時間。
そのあいだ、きっと何度も画面を確認してしまうだろう。
スマホを持つ手に、じわっと力が入る。
とりあえず、とにかく謝らなきゃ。
それだけはすぐに決めて、凛は入力欄をタップした。
『ごめん、今見た』
素直に思ったままを打ち込む。
余計な言い訳を足す前に、送信ボタンを押した。
青い吹き出しが、画面の端でふわっと浮かぶ。
それを見た瞬間、張り詰めていたものが少し緩んだ。
でも、同時に新しい不安が生まれる。
(これだけだと、足りないよね)
ごめん、今見た。
その一言で伝わるものもあるけれど、それだけじゃ、昨夜から今までの空白は埋められない気がした。
七時間のあいだ、ナツが何を思っていたのか。
気にしていなかったかもしれない。
別のことに夢中で、スマホなんて見てもいなかったかもしれない。
それでも、もし少しでも「まだかな」とか「見てくれないな」とか、そういう気持ちになっていたとしたら。
(ちゃんと、言わなきゃ)
凛は深呼吸をして、もう一度文字を打ち始めた。
『ほんとにごめん。昨日、通話終わったあとすぐ寝ちゃって、朝もバタバタしてて今まで気づかなかった……』
一度全部書いてから、文章を一行ずつ見直す。
言い訳っぽくなるのが嫌で、何度か消しては書き直す。
寝落ちしたことは事実だから、隠したくはない。
でも、「忙しかったから」と全部片付けるのは違う。
指が止まったとき、ふと、昨夜の自分の気持ちが浮かんだ。
通話を切る直前、胸のあたりがじんわりあたたかくて、「今日はよく眠れそう」とつい口に出した。
あれは本当に本音だった。
久しぶりに、誰かとたくさん話した。
何でもないことを、何でもないテンションで共有して、笑ったり「それはない」ってツッコんだり。
電話を切ったあと、スマホを胸の上に置いたまま、気づいたら朝になっていた。
(あのこと、言ってもいいのかな)
言ったところで、引かれたりはしないと思う。
でも、自分ばかりが感情を押し出しているように見えたら、どこかでバランスが崩れてしまうんじゃないかという怖さもあった。
それでも、未読のあいだ生まれてしまった“申し訳なさ”を、ただ謝るだけじゃなくて、ちゃんと自分の気持ちで埋めたいと思った。
『昨日の通話、すごく安心して、そのまま落ちた』
その一文を足したところで、顔から火が出そうになる。
「なに言ってんの、わたし」
小さく文句を言って、でも、消さなかった。
送信ボタンを押す直前、教室の端から友達の声が飛んでくる。
「凛、購買行かない?」
「あとで行くー! 先行ってて!」
短く返事をしてから、凛は小さく息を吸って、思い切って送信ボタンを押した。
青い吹き出しが二つ並ぶ。
その少し上で、ナツからのメッセージに新しい一文が増えた。
『大丈夫だよ。忙しかったでしょ?』
読み返した瞬間、胸の奥がゆるっとほどける。
(……優しい)
自分なら、「なんで見てくれなかったの?」ってちょっとだけ拗ねてもおかしくないのに。
ナツは「大丈夫」と最初に書いてくれる。
責める言葉はひとつもない。
忙しかった、という理由まで先に用意してくれている。
それが、嬉しくて、申し訳なくて。
でも結局、嬉しい方が勝ってしまう。
スマホを見つめているうちに、また新しい通知がふわっと現れた。
――ナツ:寝落ちしてくれてたなら、ちょっと嬉しいかも
「……なにそれ」
思わず、声が漏れた。
胸がきゅっと縮んで、すぐあとに、ぽかぽかと膨らみ始める。
未読のあいだにあった彼の不安は、きっと自分には想像しきれないものかもしれない。
それでも、こうやって一言ずつやりとりを重ねていくことで、少しずつ、そこにあったざらつきを撫であっているような感覚があった。
(……うまく言葉にできないけど)
自分のために、不安になってくれる誰かがいる。
自分のために、ほっとしてくれる誰かがいる。
その事実が、今の凛にとって何よりの支えだった。
『昨日のわたし、寝顔ひどかったと思うから、見られてなくてよかったかも』
勢いで、そんなふざけた返信を打つ。
それでも、指先は少し震えていた。
笑い合うみたいに軽くしておきたい。
でも、その裏にちゃんとある感情は、ナツなら気づいてくれるんじゃないかと、どこかで期待している自分がいる。
未読のあいだに生まれたもの。
それは、不安とか、申し訳なさとか、そういうマイナスな感情だけじゃない。
未読のあいだに、自分は何度も彼のことを考えた。
もし今、画面の向こうでどんな顔してるんだろう、とか。
昨日の通話の続きを心の中で勝手に喋ったり、とか。
きっとナツも、自分とは違うかたちで、同じ空白を埋めていたのだろう。
その全部が、今こうして、ちいさな文字になって画面の上に積み重なっていく。
まだ「好き」と呼ぶには早いかもしれない。
まだ「恋」と認めるには、勇気が足りないかもしれない。
それでも。
未読と既読のあいだに揺れるこの気持ちは、もうただの“友達”だけでは説明がつかないところまで来ている。
凛はスマホを胸の前でぎゅっと抱えて、誰にも聞こえないくらい小さな声で、そっとつぶやいた。
「……今日も話せたらいいな」
その願いは、まだメッセージにはしない。
送信ボタンには指を伸ばさない。
代わりに、画面の中で並ぶ吹き出しを指でなぞって、小さく笑った。
未読のあいだも、既読になったあとも。
そのすべてを含めて、今日もまた、二人の一日が静かに続いていく。